可能性の追究とクソへの拘泥

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ポケモン(ゲーム)やカードゲームで何か思いついたときの話。

新しいアイデアを思いついて、それを実戦に投入したとする。
勝てればそれでよし。
問題は、勝てなかったとき。たまに一瞬で駄目だと気付いてしまうものもあるが、大抵の場合はすぐに投げずにもう少し練ることになる。
あの日見たクソデッキの名前を僕達はまだ知らない。 vol.5 あの夏に咲くゼウス - | 晴れる屋でも可能性を追究すべきと書かれている。

クソデッキを作りたくなければ、どこまでも追究するべきなのだ。新たな可能性を。
それなのに我々は、試す前からカードやコンボの強さを決めつけたり、回す前からデッキを諦めたりしてしまう。
自身の想像力を、過信するあまりに。
それをこそ、浅原は咎めているのだ。『人間には限界がある』と。
人は完全ではない。だというのに。
どうして簡単に、『自分の認識不足かもしれない』という可能性を棚にあげて、安易に『クソデッキ』という言葉を使いたがるのだろうか?

一方で、あの日見たクソデッキの名前を僕達はまだ知らない。 vol.1 PT京都09 -青白GAPPO- - | 晴れる屋にはこう書かれている。

たとえ、わからん殺しの可能性が多少あったとしても。
作ったオリジナルデッキ全てが「当たり」だなんて、そんな甘い話はないのだ。
だから、最終的な決断を下す前に、オリジナルであるが故のバイアスがかかっていないか、実際にはクソデッキではないか等々、十分に検証すべきであったと言える。
しかしここで、もう1つ重要な問題が生じる。
それは、検証作業を続けているといつの間にか「このクソデッキにどうにかまだ進化の余地はないか」と拘泥するようになってしまう、ということだ。
自ら時間と労力をかけ、手塩にかけたそのオリジナルデッキを、手放すことは容易ではない。
それは言うなればクリエイティブの罠。

可能性の追究とクソへの拘泥。新しいアイデアについて試行錯誤しているとき、このどちらを行っているのか判断できないのが悩ましい。
ポケモン(ゲーム)もカードゲームも敗北の原因をプレイのせいにできるのが余計にたちが悪い。アイデア自体がクソであることを誤魔化せてしまう。
さらに、脇を固める要素の選択肢が多く、こちらに原因を求めることもできる。

これらのノイズを取り払い、アイデア自体が使用に耐え得るものなのか、ただのクソなのかを素早く見分けることができれば捗るのに、とクソの残骸を見ると思う。
機械的に見分けやすいのは負けたときの状態だろうか。感覚としてはこんな感じである。

  • 核になっている動き(コンボ)が成立した。
    • そもそも核の部分が弱い、有効ではない(成立させても勝てない相手がいる)。←ほぼクソ
    • 成立させてから勝つまでに時間がかかって押し切られる、逆転される。←クソかも
  • 核になっている動き(コンボ)が成立していない。
    • 相手の妨害に弱い。←クソかも
    • 成立するまで耐えられない。
      • 相手のコンボの方が速くて、こちらからの妨害がない。←頑張れるかも
      • 相手の攻めの方が速くて、受けきれない。←頑張れるかも
      • 揃えるべきパーツが多すぎて、時間がかかる。←クソかも
    • 相性が悪い(ピンポイントの妨害、構造的に苦手)。←頑張れるかも

改めて書き出してみると、かもばっかりで全く分からない…… やはり、地道にクソの残骸を積み上げるしかないのか。

上記で引用したあの日見たクソデッキの名前を僕達はまだ知らない。シリーズはどれも良記事なので、マジックを知らない人にもおすすめ。ルールやカードの効果が分からなくても読める。